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コラム#6

<起業妄想>

大学のインキュベーション施設に勤務しているとき、ある日よわい80歳くらいの男性が入居したいと尋ねて来た。聞いてみると男性の親は戦時中に兵器ではないが軍の装備品の一部を製造することで安定した業績を残して終戦。その後は持てる技術を民生向けに活かしてきたが、安い輸入品に押され、工場を畳んだ。その後、従業員の再就職も目途がつき、今度は自分の興味のある医療向けの製品を開発したいとの希望をもっているようだった。既に大手化学繊維メーカーと共同開発を行い、血液の透析装置の部品を製作したいので入居を希望しているという。実際に新聞記事や協業する繊維メーカーの開発メンバーの名刺を持参していた。こう言っては失礼だが「お年の割りにすごいことを考えているな」というのがインキュベーション施設の職員の一致した感想だった。また、会社を清算して資金的にも問題はないようだった。

 気高い理想と計画のもと無事に入居に至ったのだが。はたして・・・。

祖業で保有していた射出成型機2台をはじめ、ものづくりの体制は万全とは言わないまでも揃っていたし、会社清算後のキャッシュもそれなりに保有していた(と思われる)。

しかし、何か月、1年、2年と経っても一向に設備が稼働する気配もない。男性は色んなところで高名な大学のセンセーの講演などに出かけては情報を仕入れているかのように見えた。数か月ごとにインキュベーターとしての進捗ヒアリングを行うと「・・・の開発をやっています、取り組んでいます」との回答が返ってくるのだが傍目に見て一向に進んでいる様子はないのは明らかだった。それでも家賃の滞納もなかったので辛抱強く待つことになった。

 しかしである、入居後5年近くを過ぎてきて、いよいよ資金が枯渇してきたのである。そうなるとこちらとしては家賃をいただけない可能性もあり、残念ではあるが退去を進めることになる。冒頭で話した射出成型機など、少しは現金化できる設備を中古設備の買い取り業者に見積してもらうなどして資金を作り、円満?にご退去していただく道筋をつけさせていただいた。

今から考えれば、あのご老人は入居したときから、実際は何も作る気持ちはなかったのではないかとも思ってしまう。いや、そういう気持ちはあったのかもしれないが。たまたま、何かのきっかけで名刺交換した大手メーカーや大学の教員とあたかも共同研究でもしているような妄想に陥っていたのではないだろうか?結構な技術的な知見はおもちのようであった。しかしながら、何度、話をしても具体的かつ起業に向けて開発活動している様子は見当たらない。やむを得ず、説得して退去していただくことになったのである。

この妄想で本来、ご婦人と健やかに過ごすためのはずであった老後の資金と残された貴重な時間も大部分浪費してしまった。私はこの老人は自分であたかも起業しているかのような妄想を持ちながら5年間を過ごしたのではないか?

 ご本人はもちろんのこと、成果を出していただけると思って入居を受け入れた我々インキュベーション施設にとっても無駄な時間と資源(金)の浪費であった。これを見抜くための入居時の審査やご本人のバックボーンの確認が大切だと痛切に感じた案件であった。

                                                      おわり